日諦上人略伝

境内・本堂・開山堂

千葉県で慶長11年(1606)5月に創建されました龍潜寺を、八幡に移され立派に再建された山本日諦・智玄院日諦上人のご紹介です。
日諦上人は天保12年(1841))4月7日といいますから、明治になる27年前の江戸末期、 現在の北九州市八幡東区前田で、父、山本重吉、母はコナとの間に、お生まれになりました。
悲しいことに、3歳で母に死別。6歳の時、現在の八幡西区穴生にあります、浄土宗弘善寺のお盆法要に出かけます。
本堂には地獄極楽絵図が参詣者に開帳されていました。真之助、絵図を見て、亡き母の菩提を弔う決意を致します。

地獄絵を見て出家を志す日諦上人

13歳で小倉立法寺で出家剃髪し、名を学静と改名。15歳から京都、加賀、江戸に遊学。27歳の時、明治維新を迎え、廃仏毀釈の乱が起こる中で、僧道を復興しようと山梨県内船にあります滝山で、山篭り10年の願をかけ、28歳から滝修行に入りました。

瀧山で山籠人行をなさる日諦上人

修行中の明治6年、明治政府によって施行された戸籍法に対して、出家者だから戸籍を作らず、2年後に、県知事の説得を受け、やむなく戸籍作成に同意しましたが、違法の罪で投獄されてしまいます。

百叩きの刑を受けられる日諦上人

その後、出獄を許されたものの「所払い」として故郷前田に送還され、明治7年4月、前田村に帰った日諦上人は、上野与一郎の帰依を受け、屋敷内の持仏堂で法華経の布教を始めます。これが龍潜寺の元となりました。併せて、10年の参籠の残り3年を、近くの荒谷の滝で再開され、無事明治9年12月8日に成満されました。

荒谷での修行を再開された日諦上人

明治10年、日蓮宗より再三の要請のあった誕生寺住職に就任、誕生寺再建の大役を果たします。この間に、龍潜寺の寺号移転がおこなわれました。
明治16年、誕生寺の住職を後進に譲って龍潜寺に帰って42歳からは、栄位、栄職にもつかず、布教に精進、その足跡は全国に及んでいます。
明治38年(1905)7月24日、世寿数え65歳で死去されました。

日諦上人終焉の地、龍潜寺