アイ・ラブ・ユー。この言葉が、「私は貴方を愛しています」という意味であることは、どなたもご承知のことだと思います。これに対して、日本人の場合、「私は」とか「貴方は」とかはいらないのです。ただ、「愛しているよ」の一言で十分意味は通じると、現代文明評論家の養老孟司さんはいっています。

 

 養老さんの考えによれば、この言葉で分かるように、西洋人は、アイ、すなわち自分というものを強調したがるのに対し、私たち日本人はそれほど自分というものにこだわらない民族ではないだろうかというのです。

 

 その一例として、養老さんは、関西の方では、相手の人のことを自分というし、面白い例としては、自分たちのことをへりくだっていう時には「手前ども」といいながら、頭にきた時には、相手のことを「手前(てめえ)ら」といってしまうと、笑っています。

 

 そんな話を読みながら、私はふと、それは、宗教の違いにもあるのではないだろうかと考えました。それは、西洋の国の宗教のほとんどが一神教、すなわち、たった1人の神さまを信じているのに対し、私たちの国、日本の宗教は、いろんな神さまの存在を認める多神教を信じる傾向にあるからです。西洋の宗教も日本の宗教も、死んだ後、次の世ではもっと素晴らしい世界に生まれ変わると説くことに変わりはありません。しかし、たとえ素晴らしい世界に生まれ変われたとしても、キリスト教やイスラム教では、私たちが神さまになれるわけではありません。なぜなら彼らの神は、唯一絶対神、オンリーワンの存在だからです。これに対して、私たち日本人の場合は、死んだら神さまよとか、みんな仏になるとかいう感覚があります。

 

 いい加減といえばそれまでですが、このいい加減さこそは、大きな違い、日本人が世界に誇っていい文明だと思っています。おそらく世界の中で、日本の宗教ほど寛大な宗教はないでしょう。神さまと仏さまが同居している世界なんて西洋の人たちには理解しがたいことではないでしょうか。

 

 たしかに、日本の歴史の中でも、宗教同士の争いはいくつもありました。今でも争いがないとはいいません。でも川柳に「宗論は、いずれが負けても釈迦の恥」とあるように、人々は、お互いが認め合えるような世界を期待しています。

 

 だからこそ、お釈迦さまは、すべての人がご自身と同じような悟りを開き、ご自身と同じような仏になることを願っておられるのです。言葉を変えるなら、私もあなたもいない平等な世界こそ、仏さまの世界なのだといえるでしょう。