「足るを知るは、この上なき財なり」これは法句経というお経に出てくる仏さまの言葉です。とかく毎日 、なにかにつけて不足をいいがちな私たちです。たまには、仏さまの言葉に耳を傾けて、我が身を振り返ってみては、いかがでしょうか。

 

 先日、私は檀家の人たちと京都を訪れ、竜安寺の有名な石庭を拝観する機会に恵まれました。京都には、数えきれないほどのお寺があり、それぞれに立派なお庭がありますが、この竜安寺のお庭は一風変わっています。それは石庭と呼ばれるがごとく木もなければ池もない庭だからです。低い土塀に囲まれた南北三十メートルの庭には、白い砂利がしきつめられ、ただ苔むした十五ばかり岩が配置されているだけです。人によっては「なあんだ、こんなものか」と思うかも知れません。しかし、見事に掃き清められた、箒き目の立つこの庭は、私たちに何かを語りかけてくる気がするのです。庭に面した縁側で、人それぞれに腰を降ろし、庭を眺めています。若い人もいれば、外人さんもいます。私も腰を降ろしました。多くの禅僧が坐禅を組み、瞑想をしたといわれるこの石庭。大きな海を表しているようにも見えれば、孤独な心の世界を表しているようにも見えます。私はふとまわりの人々を眺め「この人たちは何を感じているのだろうか」と思いました。そしてお寺の栞を見ると、「何を感じてもいいのです」という意味の説明がなされています。「人それぞれに心が洗われればいいのだ」とでも理解すべきなのでしょうか。私は縁側から腰を上げると石庭とは反対側の方に足を運んでみました。すると裏側の庭の隅のところに、丸い銭形のつくばいが置いてあるのが目にとまったのです。つくばいとは 、茶室の手洗い鉢のことです。その口の字型の凹みに水が落ちてくる様も風流です。そして、その口の字型の凹みのまわりの上下左右に、四つの字が刻まれていることに私は気づきました。なんと、この字は、口の字と組み合わせると「吾、唯、足ることを知る」と読めるのです。横に立てられた立て札には「足を知る者は貧しくとも心豊かなり、足るを知らざる者は、富めりといえども心貧しきなり」と書かれています。私はウーンと唸りました。石庭といい、このつくばいといい、竜安寺は、ただ眺める庭ではなく、仏の教えを自分の心に響かせるように設計されていたのです。そして、このつくばいを奉納したのが水戸の光圀公だと知って、私は、さすが黄門さんらしいなと思ったのでした。