発心(ほっしん)とは仏さまの教えにめざめるという意味です。そこで今日は、菊池寛の代表的な作品「恩讐の彼方に」を素材にこの問題を考えてみましょう。

 

 この作品の主人公、市九郎は、主人殺しの大罪を犯したあと、身を持ち崩し、ついに追いはぎになってしまいました。ある日、木曽街道で、若い夫婦を殺し、お金を奪って帰った時、女房が市九郎にこう言ったのです。「それだけ立派な着物をきていたなら、かんざしだっていいものがあったろうに。どうして盗ってこなかったの」こう叫ぶと女房は、その場ですぐ夫の殺人現場に走っていったのです。その浅ましい姿に、市九郎は嫌悪感を憶えます。自分がした悪行には気がつかなったけれど、女房が、同じ行動に走った時に、自分の罪のおそろしさを感じてしまったのです。このままでは俺は地獄に墜ちてしまう。そう思った瞬間、市九郎は全てを捨てて家を飛び出していました。あてもなく、ただ、今見た地獄から逃げ出したい一心でした。気が付いた時、彼は浄願寺というお寺の門をたたいていました。そこで彼は発心し、罪の償いにと、黒染めの衣に身をやつし、雲を友とし、流れる水にその余生を託して、流浪の旅に救いを求めたのでした。

 

 その市九郎、名を改めて善海和尚が流れついたのが、大分県の耶馬溪でした。その当時の耶馬溪には交通の難所がありました。そこにトンネルを掘れば、人々は楽に行き来ができるのです。善海和尚は、そのトンネルを掘ることに、自分の生涯を捧げようと決心しました。それによって過去の罪を償おうとしたのです。なんとかして救われたいと願う善海和尚の必死な思いが、人間の弱さと強さを訴えています。やがてこの善海和尚を仇と追ってきた男も、無我の情熱に心をうたれ、積年の怨みを捨てて、この作業に協力するのです。罪を犯した男も怨みを忘れ得ぬ者も、人々のためになる仕事をすることで、その地獄から脱れようとしたのです。

 

 「恩讐の彼方に」という作品は、私達の苦悩の深さとその救いを教えてくれます。

 

 善海和尚たちが生命がけで掘ったトンネルが、あの有名な「青の洞門」です。仏様を信じる心が、そんな苦悩のトンネルに希望の光を通してくれたのでしょう。