私の父は、お酒が大好きでした。母からは、飲み過ぎを注意されていましたが、晩年まで禁酒することはありませんでした。
お釈迦さまも、お酒を飲むことは、不飲酒戒といって、5つの戒めの中の1つとして禁じておられますから、母のいう方が正しかったのでしょうが、好きなものはなかなか止められないというのが、父の本音だったのでしょう。
だからというのではありませんが、息子の私は父に喜んでもらおうと、どこに行っても思わず目が止まってしまうのは、お酒の銘柄です。実にいろんな名前がついています。どの銘柄も、このお酒は1番美味しいよといわんばかりの名前で、選ぶのに困ってしまいますが、その中でも私の脳裡に強く残っているのは、「上善如水」という名前の新潟のお酒です。北陸のお酒ですから、冷やで飲むのが旨いのですが、味の話は別の機会に譲りましょう。
私が興味を持ったのは、そのネーミングです。普段なら、水っぽいというのは、お酒の中ではワンランク下にみられるものです。それなのに、よくこんな名前を付けたなと思いましたが、それにはちゃんとした理由がありました。実はこのネーミングは、中国の古代の哲学者、老子という人の老子「道徳経」という本の中にある言葉から取られたものだったのです。
試みに、今、その1節を読んでみますと、「上善は水の如し。水は善く万物を利して争わず、衆人の悪む所におる。故に道に近し」とありました。その意味を説明すると、「最高の善というものは、水のようなものだというべきだろう。水はありとあらゆるものを生かしながら、決して争うということはない。その上、誰もが嫌がる低い所へ流れていく。これこそ、人が踏み行うべき道に1番近い姿といえるだろう」とでもなるでしょうか。
いやはや、なんとも含蓄のある言葉だと考えさせられました。私たちの住む地球は、水の惑星ともいわれますが、水あっての生命であることはよく分かっているつもりです。それよりも、この言葉に教えられたのは、水は、誰もが嫌がる低い所へいくということでした。これは、仏さまの教えの中にある給仕の心に通じるものです。自分が上にたつのではなく、下から人々を支えるという心がけです。そんな生き方をしながらも、水は岩をも穿ち、山をも動かすエネルギーを持っているのです。
老子という人は、実にうまいことをいったものだなと思いました。そう思いながら、グラスに注がれたこのお酒を、お仏壇の父の位牌に供えるのでした。やっぱりお酒って人生の友ですよね。
