人は誰でも自分の気持ちを分かってほしい、相手に心の内を訴えたいという願いを持っています。それは、知的障害がある子供だって変わりはありません。いえ、訴える手段がないだけに、その気持ちは普通の人よりももっと強いといえるのではないでしょうか。

 

 イチローくんは、お医者さんから「自閉症」と診断された六歳の坊やです。自閉症という病気は、対人関係を結ぶのが苦手で、自分のからの中に閉じこもってしまうもので、知能指数は決して低くはないものの、言葉の発達がみられないという心の病気です。それだけに、感情はほとんど失われています。このイチロー君の治療に当たったのが、教育心理学者の伊藤隆二先生です。伊藤先生は、イチローくんの目の前に一枚の画用紙とクレヨンを置き、「好きなものを描いてごらん」といいました。すると彼は黄色の丸を3つ、赤い丸を2つ、そして紫色の丸を1つ描いたのです。「この絵はいったい何を意味するのだろう」伊藤先生は、首をひねって考えましたが、見当がつきません。お母さんにも分からないようです。そこで絵本を見せれば、彼が反応を示すだろうと考えた先生は、絵本を取りに席をはずしたのです。その隙にイチローくんは、画用紙いっぱいに縦と横の黒い線を塗りたくっていました。先生には、この絵の意味がいよいよ分からなくなりました。相手が、自分の描いた絵を理解してくれないのがもどかしいのか、イチローくんは、表情のない顔で、お母さんの方をじっと見上げています。その時、何かひらめいたのか、「そうね、そうね、よく憶えていてくれたわね、イチローちゃん、ありがとう」とお母さんがいったのです。イチローくんの頬が大きく揺れました。彼は笑ったのです。これを見て先生は驚きました。「いったい何の絵なんですか」こう尋ねる先生に「黄色い3つはバナナ、赤い2つはリンゴ、そして紫色はブドウなんです。黒い線は、私が毎日持ち歩く買い物カゴだったんです」とお母さんが答えました。イチローくんは、自分の大好きな果物を買って来てくれたお母さんに、精いっぱいの感謝の心を伝えたかったのです。先生は「さすがはお母さんだ」と感心しました。そして同時に「言葉を失った子どもの心を読みとるための辞書を自分は手に入れることが出来た」と語っています。病める人の心を開かせるためには、それを分かろうとする愛情がなによりも必要だと知らされたのでした。