私たちが、自分の周りにあるものと出会うのは、目や耳で見たり聞いたりするからでしょう。それに臭いをキャッチしたり、口に入れて味わったり、手や足で触ったりして、この世の中にあるいろんな情報を私たちは頭の中にインプットするのです。

 

 いわば、目や耳や鼻、それに加えて舌や体の皮膚は生まれながらにして与えられたレーダーのようなものです。この五つを一般には五官といいますが、仏教の言葉では五根、五つの根といいます。おそらくは木の根のように、この五つが外からの情報を吸収して、私達の心の中で、情報が枝となり葉を繁らせ、それぞれの思いの実を結ばせるからそう呼ぶのでしょう。私たちは、この五根の働きのお陰で、人生にいろんな思い出を作ってきました。

 

 でも最近、私の目は、老化が進み、新聞を遠く離して見るようになりました。「年だから仕方ないでしょう」と家内は言いますが、そのうち耳も遠くなるかもしれません。

 

 そんな不安を抱いていた時、「おい、お前の所に連れて行きたい夫婦があるけど、いつなら都合がいい?」と友人から電話がありました。友人の話によれば、この夫婦は供に耳の不自由な人なのだとか。

 

「それじゃ、どうやって対応すればいいんだい」と私が尋ねると、「俺が付いて行くから大丈夫だよ」と友人は言ったのです。

 

 そこで友人の手話を通じて、私はこの夫婦と話すことになりました。聞けば、この二人には、子供もいなければ、頼りにする親戚もいないのだとか。そこでお寺を心の拠り所にして人生の安心を得たいと思っています という彼らの願いに、「いいですよ、仏さまは、すべての生きとし生けるものをお救いになるのですからね」と私は歓迎しました。その時、大層喜んでくれたご主人が、「ありがとうございます。それならば、偶然にも今日は父の命日です。本堂でお経を上げて下さいませんか」と申し出たのです。ご供養するのは、お坊さんとして当然の役目、二人を本堂に案内しましたが、「待てよ、耳が不自由なこの人たちにお経の声は聞こえるのだろうか」と心配になってしまったのです。

 

 ところが、案ずるよりも産むが易し。二人はご供養の間、涙で顔をクシャクシャにしながら手を合わせてくれていました。私はその時、五つの根の他に、もう一つ、根のあることを思い出しました。

 

 それは意根(いこん)といって、心の根。「仏さまは、耳にでなくてもちゃんと心に教えを伝えて下さるんだ」ということに気づかされたのです。

 

「心清らかなれば、五根また清らかならん」という仏さまの声が私の心の中にも響き渡ったのでした。