数年前の出来事です。初めて入院生活を体験しました。命にかかわるような病気ではないのですが、手術をするなんていうのは、私にとっては、人生での初めての出来事です。

 

 お医者さんは、「大丈夫です。なんの心配も要りません」といって下さいますが、これからどんな事が始まるのかと思うと心臓は波打ち、今にも破裂しそうな恐さを憶えました。

 

 お医者さんの説明によれば、手術は全身麻酔によって執り行われるのだとか。そのまま目が覚めなかったら、どうしようかとさえ考えました。そんな私を励ましてくれたのは、看護師さんたちでした。病室を担当してくれたのは、私の娘と同級生のお嬢さん。手術に立ち会ってくれたのは檀家の娘さんです。しかも、執刀するお医者さんまでもが、日蓮宗のお檀家さん。なんというご縁の巡り合わせでしょう。

 

「龍潜寺さんはお坊さんでしょう。お題目を唱えて、心を落ち着かせて下さい」と言われて、改めて、私は今ある自分の立場に気づかされました。

 

 そうです、私はお坊さんです。日頃は、お寺で檀家の人たちに、そんなお説教をしているくせに、いざ、自分の事となると、ただの弱い人間に戻っていたのです。

 

 でも、人間って、本当は弱い生き物なんですよね。そんな弱さを彼女たちの前にさらけ出してしまったのは残念ですが、「お題目」という言葉によって立ち直らされたのは事実です。後はまな板の上の鯉、そう心を決めてベッドの上の人となりましたが、麻酔のお陰で、どんな手術が行われたのかは、まったく憶えていません。

 

 それは、私が長年かかえていた蓄膿症を治す手術だったのですが、後から、その経過を開けば、麻酔なくしては、とても耐えられない手術であることを知りました。それだけに目が覚めてからの体験が、これまた大変でした。「痛い」、「苦しい」と訴える私に、今度は、「お坊さんが、これくらいの事、我慢できないでどうするんですか」と叱られたのです。いやはや、我が娘と同い年の看護師さんからですよ。

 

 看護の「看」の字は、「みる」と読みますが、それは手という字と目の字の組み合わせです。患者の心理状態をよく目て、手当てしてくれるのが看護師さんの仕事なのでしょう。たった十日間の入院でしたが、いやはや、とっても勉強になりました。退院した後、たまたま目にした職業別の「誠実度と倫理観」についての世論調査では、そのトップに立っていたのは、84%の信頼度で看護師さんたちでした。

 

 参考までに申し上げれば、私たちお坊さんが属する聖職者への信頼度は58%、これは敗けてはいられないと思ったものだったのです。