仏さまの愛のことを私たちは〈慈悲〉といいます。

〈慈〉は「いつくしむ」悲は「かなしむ」という字を書きますが、インドの言葉では「慈」は「マイトリー」と言い「友情」という意味です。それに対し〈悲〉は「カルナー」と言い、「呻き(うめき)」という意味を持っています。「呻き」というのは、どんなに我慢しても発せずにはいられない、辛さ、痛さ、悲しさです。そして、それは誰もが、この人生では経験せずにはおられない悲しさでもあります。この呻きを、身を持って感じた時、人は他人に対する思いやりが出てくる。これがお釈迦様が説かれる慈悲の根源です。決して高い所から救いの手をのべるのではなく、悲しみを分かち合うという心から起こる愛情だとでもいいましょうか。ショーペンハウエルという西洋の哲学者は「仏教で一番すばらしいのは、悲の心だ。人が苦しんでいるのを見て、自分が苦しんだのを思い出して、そして、もうどうしても手をさしのべずにはおられなくなる。これが悲の心だ」と言っています。キリスト教の場合は、神の愛だが、仏教の場合は人間同士の愛、友情だと彼は指摘しているのです。でも、これが簡単なようで、なかなか難しいのです。

 

 ある時、お釈迦さまがお弟子を連れて法を説くために出向かれた時、例によって、お釈迦さまに敵意を抱く人々が、これを妨害しようとしました。大声で悪口を言ったりと、お説法に素直に耳をかそうとはしないのです。

 

 これには、若い血の気の多いお弟子たちはカーッとなってしまいます。でもお釈迦さまは、いつもと変わらない穏やかなお顔をなさっています。そこで「お師匠さま、どうして、そんなに平静なのですか」とお弟子が尋ねました。するとお釈迦さまが答えました。人が悪口をいい敵する時は、その者に心の痛みがあるからである。彼らは私に敵しているようだが、実はそうではない。彼らの心に棲む悪魔が、彼らの心に宿す仏性の目ざめを妨げようとしているにしかすぎない。それは呻きである。その呻きを私は今、心静かに聞いているのだ。私自身も又、呻きの中から悟りを得た者であるからだ。聞くがよい、あの声こそ救いを求める真の呻きである」そう語られるお釈迦さまの眼にお弟子たちは限りない慈悲の光を感じたのでした。