あるところに4人の妻をもったお金持ちがいました。ある日のこと、彼は、ふと、こんなことを考えたのです。「私も年をとって、そろそろ死ぬ時が近づいてきた。死ぬのはいやだが、これは仕方のないことだ。でも1人では死にたくない。だれか一緒に死んでくれるものはいないだろうか」そこで彼は、1番かわいがっている 妻に「私は今までお前が1番好きだった。片時だってお前のことを忘れたことはない。だから死ぬときは、是非お前をつれていきたいのだが」と頼んだのです。

 

 彼女は、どっと泣き崩れ「可愛がって下さったあなたの気持ちは分かりますが、一緒に死ぬことだけはかんべんしてください」といったのです。

 

 彼は仕方なく、2番目の妻、3番目の妻にも頼んでみましたが、答えは同じく「ノー」という返事ばかり。彼はすっかりしょげてしまいました。

 

 「生きているうちにどんなに可愛がっても、所詮、死ぬときは1人なんだろうか」そんなとき、彼はふと、4番目の妻のことを思い出したのです。彼は、日頃、この4番目の妻を大事にしていませんでした。汚い仕事ばかりさせて、可愛がっていなかったのです。「おそらく、あいつもみんなと同じだろう。でも、頼むだけは頼んでみよう」と彼は一抹の望みをかけて4番目の妻を呼び寄せました。答えは意外にも「イエス」だったのです。「3人の方に夢中になっていたあなたは、私のことを忘れていたかもしれません。でも私は、いつもあなたのおそばにいたのですよ。喜んで、どこへでもお伴いたします。」

 

 お釈迦様は説かれます。

 

 1番目の妻とは肉体である。これはどんなに可愛がっても死ぬときは別れなければならない。2番目の妻とは、地位や財産であり、3番目の妻とは、親や兄弟のことである。そのいずれも、どんなに愛しても、死ぬときまではついてこない。だだ4番目の妻、人の心だけが死の後も離れることのないただ1つのものであると。

 

 私たちが日頃、忘れがちな心の問題、それこそ、大切にすべきだと、お釈迦様はとかれるのです。