先日のことです。ある大手新聞の広告社から電話がかかってきました。

「今回、うちの新聞でお彼岸の特集記事を組むことになりました。つきましては、お宅のお寺さまにも協賛の広告をお願いしたいのですが」という依頼です。

「またか」と思った私は、即座に断りの返事を口にしました。

でも相手も負けてはいません。

「仏教の行事を社会に知らせることは、今の時代、とても大切な布教だと思いますけれども」さすがはセールスマン、こちらのウィークポイントをついてきます。

数分間にわたる押し問答の末、なんとかその場は切りぬけたものの、私は電話の相手とのやりとりが気になっていました。

というのは、あるヨーロッパの学者が言っていたこんな言葉を思い出したからです。

「たしかに仏教は素晴らしい教えである。しかしキリスト教に比べると今一つ欠けたところがある。それは仏教には教えを人々に伝え、共に分かちあい、共に活動しようとする意欲が乏しいことである」この痛烈な批判は、今のお寺の一面を指摘しています。

余りにも消極的なお寺のあり方が、社会から仏教を忘れさせている原因のひとつになっています。

しかし、あえて「しかし」といいます。仏教は、宣伝の宗教ではないのです。

静かな思索の中から生まれた仏の教えは、やたら目や耳に洪水のように流れこむことによって広まったのではありません。

むしろ、目や耳にふれるものを見ると、やたらご利益談義や奇蹟を誇る宗教広告が目につきます。

宣伝と布教とは違うのだと気がつきました。

宣伝は、こちらの存在をアピールするものですが、布教とは、相手のためを思って教えを広めることです。

お釈迦さまは四十五年の間、法を説き続けられましたが、それは、常に人々の悩みに対して答えを出していくというものでした。

決して、これ見よがしの押しつけではなかったのです。たしかに現代は宣伝の時代、社会に仏の教えを広めることは大切です。

でも一時的に燃えさかる火のような信仰よりも、たゆまない水の流れのような信心が大切であると日蓮聖人は語られています。

みんなの心にしみる布教、それを真剣に考えるべき時代なのではないでしょうか。