「生者必滅、会者定離(しょうじゃひつめつ、えしゃじょうり)」、これは、「生まれて来た者は必ず死ぬ。出会った人は、いつかは別れる時が来る」という意味の仏さまの教えにある言葉です。お葬式で読み上げられる弔辞の中にも、しばしば出てくる言葉ですから、皆さんも耳になさったことは、お有りでしょう。この言葉を聞けば、悲しいことだけど、人生って、その通りだなと感じる人も多いのではないでしょうか。

 

ところで、先日、ジャーナリストの徳岡孝夫さんの書いた「別れが消えた」というエッセイを目にして考えさせられることがあったので、お話ししたいと思います。

 

 徳岡さんがいうには、「近頃、日本人は別れる人を見送ることが少なくなったのではないだろうか。これは嘆かわしい現象だと思う」と書いていました。「昔は、二度とこの人とは会えないかもしれない。だからこそ、別れを惜しみたい。この人の未来が幸せでありますように」との思いで見送りに行ったといいます。しかしながら、機械文明の発展は、そんな人々の切ない思いは、もう時代遅れだよといわんばかりに、いろんな便利な道具を私たちに提供してくれました。今では、ネット通信で、遠く離れた海外に住む子どもや孫たちとも映像入りで話しあえる時代です。

 

 だけど、機械は機械。「どんなに便利になっても、肌のぬくもりは、どんどん少なくなっていくような気がするんですよね」と檀家のお婆さんがいっていたのを思い出しました。

 

 このお婆さん、「用事があったら、いつでも、これを使ってね」と娘さんから携帯電話を買ってもらったそうです。そこで早速、電話すると、最初のうちは機嫌よく応じてくれたものの、最近では、「たいした用事でもないのに、そんなにしょっちゅう電話してこないでよ」といわれたのだとか。

 

 徳岡さんは、「携帯電話は、現代人から別れの中にある人生の教訓を見失わせているのではないだろうか」と提言しています。そして「現代文化の盲点は、『繋がりっぱなし』にある」とも指摘しているのです。

 

 そう指摘されれば、私も手にしている携帯電話を見つめ直したくなりました。いつでも連絡できるという安心感はあるものの、時には、この繋がりから解放されて、もっと自由でありたいと思うこともあるからです。もちろん、お坊さんの私は、檀家の人たちにご縁の大切さをお話ししています。

 

 しかし、お釈迦さまは、そのご縁にも、いつの日かは別れの日があることを心しておくべきだとお説きになっておられます。別れるからこそ、今のご縁を大切にしなさいという仏さまの教えを、心に携帯しておかなければならないと気づかされたのでした。